天穂日命(あめのほひのみこと)の降臨伝承が島根県の最東端の安来市吉佐町があります。

 

中海には、干拓地である穂日島(ほひじま)町が見えます。天穂日命の降臨伝説地を調べました。

 

 

『出雲国風土記』の天穂日命

 

出雲国造の祖である天穂日命ですが、『出雲国風土記』(733年)では、たった1か所だけ登場します。

 

編纂者が、出雲国造でかつ意宇郡大領であった出雲臣廣島なのにとても不思議です。

 

意宇郡屋代郷に登場します。しかし、天穂日命の話ではなく、いっしょに降臨した天津子命(あまつこのみこと)ばかり書かれています。

屋代郷(やしろごう)。郡家の正東三十九里一百二十歩の所にある。

 

天乃夫比命(あめのほひのみこと)の御伴(みとも)として天から降って来た、

 

社印支(やしろのいなぎ)らの遠い祖先神の天津子命(あまつこのみこと)がおっしゃられたことには、

 

「わたしが清浄の堺として鎮座したいと思う社である」とおっしゃられた。

 

だから社という。〔神亀三年に字を屋代と改めた。〕 (島根県古代文化センター編 『解説 出雲国風土記』 今井出版)

※ 天津子命は、天穂日命と同じ天照大神の御子である天津彦根命(天津日子根命)という説があります。

 

※ 印支(いなぎ)はカバネで、稲置とも書きます。

 

デジタル大辞泉(小学館)によれば、稲置(いなき・いなぎ)は、

 

1 大和朝廷の地方官の一。屯倉 (みやけ) の長官。稲穀の収納を職務とした。

 

2 天武天皇が制定した八色 (やくさ) の姓 (かばね) の最下位。

 

当然、1の方の意味だと思いますが、『出雲国風土記』の記事からは、ヤマト王権の再編に際して、ヤマトから派遣された官吏の神々であったように読めます。

 

記紀神話では、天穂日命は高天原という天上界から派遣される神ですが
天から降臨することは、あり得ないので、海から上陸したのだと思いますが、どこからやってきたのでしょう。

 

天穂日命の伝承

 

穂日島(ほひじま)

 

 

とても小さな島です。この島に由来して、干拓地が穂日島町になりました。

 

天穂日命が釣りを楽しまれた所との伝承があり、神詞(かじ)島、仏岩とも言われてます。

 

ミソギの池

 

昔は、天穂日命がお体を清めたと云われる池があったそうです。

 

天穂日命の御祓い即ち玉体を御清めになった池だといふことである。

 

吉佐の金屋谷といふ山麓に在ったといふ。今は自然に埋もれて其の形跡がない。(安松琴之助 『島田村の史跡と傳説』 1933年)

 

支布佐(きふさ)神社

 

支布佐(きふさ)神社  島根県安来市 安来町吉佐町365

 

 

祭神は、天穂日命です。

 

『出雲国風土記』(733年)に載っている神社として不在神祇官社として、2社見えますので古社に間違いありません。

 

神社名の支布佐

 

支布佐から、現在の地名「吉佐」になったと思えます。

 

言葉の意味はわかりませんが、『古事記』のホムチワケ伝承に登場する出雲国造の祖・岐比佐都美の関係したかもしれない説もあります。

 

なお『出雲国風土記』の出雲郡には、「支比佐社」という不在神祇官社があります。

 

出雲風土記解に 支布佐社云々按に支比佐加美高日子と同神か と註せり。

 

以上により支布佐社は其地方の領主岐比佐都美を祭りしものにて  ( 『島根県史 3』 大正10-15 )

 

式内社 天穂日命神社

 

平安時代の延喜式神明帳には、能義郡に一座(小)天穂日命神社として載っています。

 

正徳年間(1711~1716)と明治初期の2回にわたり、能義神社と論社争いになり、支布佐神社に軍配が上がっています。

 

能義郡の式内社については、たいへんな謎があり、能義郡にあるはずの式内社が意宇郡に載っています。詳しくはこちらに→ 野城大神の謎(4) 延喜式神名帳

 

天津大明神・国津大明神

 

現在の支布佐神社は、江戸時代には「天津大明神」と呼ばれ天穂日命を祭神として祭っていました。

 

出雲国風土記時代に、支布佐が2社ありますが、もう一社は、現在支布佐神社と田園をはさんで反対側の東側の山麓(国吉という地名)にありました。(今は畑となっていて跡は無し。)

 

「国津大明神」と呼ばれ、祭神は『出雲国風土記』に登場する天津彦命です。

 

『出雲国風土記考証』(大正15年)では、祭神が国津大明神が「大己貴命を祀る」とありますが、明治11年12月の『神社寺院明細帳 取調』には「祭神 天津彦命」となっています。

 

(なぜ、「天」が付いた神が国津なのかと疑問が出てきますが、それはまたの機会に記事にしたいと思います。)

 

首玉石

 

 

支布佐神社の向かって右側にある高さ1mぐらいの石です。昔はさらに丸石が上に載っていたようです。

 

支布佐神社の東側にある。昔は此の石の上に一つの丸い様な石があったそうで或は神社の御神体であったのではあるまいかといふことである。(安松琴之助 『島田村の史跡と傳説』 1933年)

 

神代塚古墳(こうじろづかこふん)

 

天穂日命の御陵と伝承されている古墳です。

 

現在の墳丘は、南北13m、東西11m、水田面からの高さ3.5mで楕円形状をしています。

 

横穴式石室の天井石が露出していますが、現在は木が伸びて見えません。

 

現在の 神代塚古墳

 

 

2014年の神代塚古墳

 

 

横穴式石室となると、古墳時代後期となります。

 

【 参考文献 】

 

安松琴之助 『島田村の史跡と傳説』 1933年

 

島田地区郷土史編集委員会 『ふるさと島田資料集』 2021年3月

 

建設省松江国道工事事務所・島根県教育委員会 『石田遺跡・カンボウ遺跡・国吉遺跡』 1994年3月

 

続く (書き足していきます。)

 

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